ハンセン病市民学会 第四回シンポジウム

南静園へお手伝いながら、オンラインで参加するシンポジウムに立ち合いしてきました。

「差別されない権利」にふれた裁判についての報告がありました。

もとは差別解消を目的としてつくられた書籍「全国部落調査」を復刻で出そうとした出版社を相手どって、249人が原告となり裁判をおこしました。
部落差別が現在も根強く存在していること、企業や興信所に渡り、就職差別や結婚差別につながりかねないこと。

東京地裁判決(2022.9.27)の判決は、出版およびウェブでの公開差し止めを一部認める(25件について)というものでした。
のこる16件は原告のいない県があったことなどが理由になりましたが、被害対象がいないというだけで、行為自体の違法性は変わらないのだそうです。

今回、「法的利益」を認めたものでしたが、差し止めが認められたことから、「権利」を認めたに近い判決といえそうです。

判決文
「(憲法13条の)趣旨等にかんがみると、人は誰しも、不当な差別を受けることなく、人間としての尊厳を保ちつつ平穏な生活を送ることができる人格的な利益を有するのであって、これは法的に保護された利益であるというべきある。」

差別をなくすとは、たんに「同じ扱いを受ける」というだけではなく、差別された人の心を傷つける(人格的価値を傷つける)ことにも留意が必要です。

「差別されない権利」とは・・・
 たんに「(不合理な)別異取り扱い」を受けない権利ではない。
 「嫌悪感や偏見に基づく排除や攻撃」(およびこれを助長する行為)を受けない権利
  ⇒14条1項(法の下の平等)では導けない
  ⇒13条(幸福追求権)+ 14条1項 から導いた

「差別されない権利」は、あとに続く裁判を見ても、その必要性をあらためて知ることができます。

d4p.world

「差別的な表現を用いて原告を侮辱する本件投稿は、社会通念上ゆるされる限度を超える侮辱行為であると認められる。」

www3.nhk.or.jp

「『祖国へ帰れ』という表現は、女性のこれまでの人生や存在自体を否定するもの」

属性に対する誹謗中傷は、その人個人への中傷ではないけれど、「差別されない権利」があってこそ、誹謗中傷と認められる。
差別という問題にあまりに無力だった法律学における「差別」の意味の組み換えの契機であるかもしれない、というメッセージで締めくくりとなりました。

映画「福江村」を観たばかりで、重ねてしまうのですが、差別して良い対象を作っていくことで、次第にそれが「加害を加えて良い相手」となっていき、社会全体がそれを許容するときに大きな虐殺につながっていくのだと感じます。

しかし、もしかすると現在の法律で、「加害してよい相手」を対象化していく空気を抑えることは難しいのではないか、とふと考えさせられます。
プライバシー権」「名誉権」などでは、属性に対する差別を助長する言論から、個人を守ることがなかなかできないのが現状のようです。
そこで「差別されない権利」があって、属性に対する差別・憎悪表現から守られるのだという話でした。

「差別されない権利」、その人が自分らしい自分でいて尊重され、中傷されない権利。
お互いを尊重しあうために必要な権利だと思いました。