11.23 沖縄県民平和大集会 「沖縄を再び戦場にさせない」

一回目の県民大会が行われたのが2月28日。
県庁前の県民広場で「千人集会」として呼びかけましたが、1600人が集まり、那覇市内のデモ行進も壮観で、メディアも大きく取り上げてくれました。

二度目は5月、梅雨の時期を気にして、場所は屋根のある北谷公園。
離島からは、飛行機に乗り、さらにバスかタクシーに乗り継がなければいけません。
さらに当初予定された日時が、「5月の週末で統計的に雨が少ない日」として変更になったことの把握が遅れ、参加することさえ一時迷いました。

それでも宮古島からの参加者も10人ほどいて、当日待ち合わせてタクシーで移動する日程を組み、北谷公園近くのやよい軒でみんなでお昼をとるなどして、ゆっくり話ができる機会がとれて、かえって良かったです。

北谷集会に集まったのが2100人。
目標の5000人には遠く、当初夏ごろにとめざした1万人集会は、やはりハードルが高いのではと内心思ったものでした。

流れが変わってきたのが、9月のキックオフ集会でしたでしょうか。
参加人数は800人と少なかったのですが、会場の様子がインターネットで流れたことや、識者・政治家の参加が少しずつ見られ始めたこと。

2月、5月の集会を受けるように、うるま市沖縄市でも市民集会が行われました。
うるま市は決起集会の50名、6月には340名、9月には520名と回を追うごとに人数を増やしています。
沖縄市は日米合同訓練に反対して1000人を超える参加者がありました。

また、今年10月、辺野古の埋め立てをめぐる裁判で県が敗訴したことから、玉城知事は工事を承認するか決断を迫られました。

私人の権利救済のための行政不服審査制度を、沖縄防衛局という国の機関が利用する矛盾点に目をぶつるように出された判決は、これが横行すれば、地方自治が成り立たなくなるほど、あってはならない判断です。

これに反応して、オール沖縄会議による集会や、地方自治議員による有志の会などの動きがおこり、結果このことが11月の県民大会への熱に繋がっていったのではないかと思います。

この間、私もあちこちにメッセージを送ったり、居合わせてマイクを握ったりしましたが、各地で小さくくすぶっていた思いが繋がり始めていると感じています。

大会運営にはさまざまな課題があります。
離島から参加することの困難さに配慮してほしいとうったえたこともあります。
スローガンについても様々な意見があります。
大衆運動のあり方については、ずっと言語化したい思いがありますが、書けば必ず長くなるので着手できずにいます。
また稿を改めて。

組織から固めていくべきだったという意見もあれば、市民団体から声があがっていった(そうならざるを得なかった)ことを評価する声もあります。
また、立場や思いの異なる人たちとどう意見をすり合わせるのかということも、課題があると感じています。
丁寧に話せる機会が持てると良いですね。

例え歴史に負けてしまっても、民主主義の種を残すことだけは、最後まであきらめずにやるべきことではないかと思うことがあります。
そういう意味でも、今年通して行われた県民大会からは、学ぶことが多くありました。

前泊教授の炎天下の講演も、心に残る言葉が多々ありました。

各島じまからの報告は、やはり聞き入るものがあります。
小さな島の私たちでは抵抗しきれないという悲痛な思いも、そこには感じられました。
だからこそ繋がっていくこと。
一貫して「島じまを孤独にさせない」と話す山城博治さんの行動提起。
次の目標は、全国各地とつながっていくことと話されました。
さらに5万、10万とその数を広げていくこと。

また新しい目標です。
山を登った先には、さらに険しい頂がそびえている。

うまくいくのかも分からないけれど、明確な目標を掲げて、また前に進んでいこう。
歩いた先で、次の出会いや展開が生まれていく。
この戦いは私たちの世代では終わらないかもしれない。
それでも、だからこそ今、歩いていこう。

そんなふうに、秋にも関わらずまばゆい陽射しの中で考えました。