なぜ私たちは抗議活動をするのか。


県知事選や議会の報告や、講演会のご報告もしなければいけないところ、時事的な話題になってしまいますが、身近なことが大きなニュースになっていましたので、自分自身の整理整頓のためにも記事を書いておこうと思いました。

フランス在住のひろゆきさんが、遠く沖縄の辺野古まで足を伸ばして、抗議活動の現場に来られたようです。関心を持っていただくことは大変に嬉しいことですね。

ところが夕方の時間帯は工事車両の出入りがなく、抗議活動の場に人がいなかったため「座り込み3011日」とした看板へ「0日にした方が良い」とSNSに投稿したことが、様々なメディアで取り上げられました。

複数の方から、工事がない日や時間帯は座り込みはしてないことを伝えていますが、インターネット上の反応はやや厳しいものが多いようです。

ひろゆきさんの素朴な疑問はそれとして、こうした反応を見ていると、そもそもの「抗議活動」が何かという理解からすれ違っているように感じます。
抗議活動にはデモ活動や反対活動などさまざまな形態がありますが、共通しているのは、「公の場で自分達の意思や主張を示す行為」であるということです。

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」として、これらの活動の自由が保証されています。さて、では「公の場で自分達の意思や主張を示す行為」には、どのようなものがあるのでしょう。

大規模なデモ活動が映画作品に描写される機会も増え、おなじみの風景となってきていると思いますが、私が初めてふれた抗議活動は、嘉手納基地を取り囲む「人間の鎖」でした。

基地の撤廃と、沖縄が平和の発信地となることを願って、集まった人々が繋いだ手を掲げました。この時、嘉手納基地を包囲した「人間の鎖」にはルーツがあります。

人間の鎖」は1989年、ソビエト連邦の占領に対して、エストニアラトビアリトアニアの3つの国の首都から首都へと、民衆が手を繋いで抵抗の意思を示した活動でした。
強い連帯と、独立への意思をうったえたデモンストレーションで国際社会に存在感を示した3つの国は、機運を得て1991年に独立を成し遂げました。

今回、辺野古の抗議活動へは「パフォーマンスでやっている」「ポーズでやっている」「覚悟がない」という声も聞こえてくるように思います。ひろゆきさんの投稿も、そういった見方が反映されたものではないでしょうか。

抗議活動には様々な形があるものなので、覚悟をもった苛烈な活動もあるのかもしれません。

では「人間の鎖」はどうでしょうか。パフォーマンスやポーズとは違うのでしょうか。キング牧師が呼びかけたワシントンへの行進は、パフォーマンスではなかったでしょうか。

タイやミャンマーでは、3本指を掲げるハンドサインで抵抗の意思を示した抗議活動が行われています。SF映画の中で、体制へ対する抵抗として示されるサインから来ています。果たして3本指のハンドサインで、社会の何が変えられるのでしょう。

映画の中では、このハンドサインは明確に意味のあるものとしては描かれていません。

ゲームの駒として消費されるプレーヤーが、一人の尊厳をもった人間であることを示すために表現したサインです。このサインを掲げる時、主人公は、ゲームの中に用意されたロールを超えて自己表現を行うのです。

自分の今いる場所から、自分自身の声を上げていくこと。私はそれが抗議活動の原点ではないかと思います。3本指のハンドサインも、行進も、民衆が手をつなぐデモンストレーションも、自分の意思を世界に示す方法の一つなのです。

抗議活動には実力行使を伴う過激なものもあるかもしれません。
平和裏に行うものは、表現の自由に基づいて行われるパフォーマンス的なものにならざるを得ないと私は思います。

多数の人々からは見えづらい立場の声を形にしていくことを原点として、その声を世界に響かせていくためには、パフォーマンスやポーズや、覚悟が無いと言われることがあっても、むしろそのことにこだわっていくことが大事なのではないかと考えています。

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共産党当局に認可を受け行われた「人間の鎖」も、参加した人々は報復を恐れたと言います。
キング牧師の率いた公民権運動への暴力はさらに過激でした。
タイでの3本指のハンドサインも、取り締まりの対象となりました。
パフォーマンスでさえ権力は怖れます。少数派の人々が言論を作っていくことを怖がるのです。

日本では抗議活動に対する苛烈な暴力はありませんが、代わって冷笑主義が、少数派の人々の表現を抑圧します。多数派に属する人々にとって私たちの声は、本能的に受け入れがたいものに感じているのかもしれません。

報道などで抗議活動を見て「嫌がらせをしているだけ」「妨害行為」という人もいます。
公民権運動のきっかけとなったモンゴメリー・バス・ボイコット運動では、白人優先席のあるバスへの乗車を拒否してタクシーや車の相乗りをすることに対して、「公的機関に対する営業妨害行為」として運転手を逮捕しました。

3本指のハンドサインも、体制側の人々は「軍政に対する嫌がらせ」と受け取ったでしょう。

白人に管理されていた方が、黒人にとって幸福なのだという考え方もあったでしょう。
少し低賃金で労働時間が長くて、裁量もあまりないけど、安定した仕事が用意されています。試練の多い自立ではなく従属依存を選ぶ人も当然います。

多くの黒人は現状維持を望んでいるのに、一部の黒人が我儘を言って騒いでいると見る人も少なくないと思います。沖縄のことが全国ニュースになる時、インターネットをひらけば、似たような意見が洪水のように流れ込んできます。

保良で抗議活動が始まったばかりの頃、山城博治さんは宮古島に来てくださいましたが、運動についても色々とアドバイスをもらいました。

今でも大切にしているのは、いかに運動を継続させるかということです。
「無理をしたら絶対にダメ」と山城さんは言います。
「自分も無理をしてはいけないし、参加する人にも無理をさせてはいけない」と。

真面目で真摯な人ほど熱くなりやすいものです。でも私たちは敵を作るために運動をするのではない。私たちの声を広く響かせるために活動をするのです。
活動を続けるうえで、工事が休む日は抗議も休むし、工事車両の少ない時間帯も休みます。

言葉のすれ違いは、もともと心がすれ違っている所為のようにも思います。
それでもこういった分断を乗り越える心を持つことが、民衆運動に問われていることなのかもしれないとも思います。