保良歩き・歴史巡り - 地域資源発掘・共有化事業

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保良地域が「ふるさと百選」に認定されたことをきっかけに、地域集落の資源や魅力を発掘、共有するもよおしが、県の地域活性化助成事業を利用しておこなわれました。

夏の暑さも本番となった7月中旬でしたが、子どもやお孫さんと世代を超えて参加があって、とても楽しい時間を過ごすことができました。

避難壕(チビピキ゚アーブ):76年前の記憶

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珊瑚礁が隆起してできたといわれる宮古島。高い嶺には今でも、土を掘ると貝の化石が見つかることがあるといいます。ここは、隆起サンゴ礁の島にできた特有の洞窟。戦時中は空襲から逃れるための避難壕になったのだそうです。

壕の近くに住む平良さんが、ここでの記憶をお話しくださいました。敷き藁の上で寝たこと、ノミがたくさんいて堪らなかったこと。幽霊の噂があって、ススキの揺れる影に驚かされたこと。食料も乏しく、戦時、戦後のような時代はもう過ごさせたくないとおっしゃるお話が印象的でした。

強い日光から洞窟へと降りていくと、とたんにひんやりとした空気。洞窟の中には貝殻が残っているそうで、子どもたちはひととき貝殻探しに夢中になっていました。

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保良総代平良真牛生誕の碑:人頭税廃止運動の功労者

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先島諸島明治36年まで過酷な税を背負わされていました。この税制を敷いたのは琉球王府でしたが、とくに薩摩による琉球支配によって苛烈なものになったと言われています。人頭税と呼ばれるこの税制は、1637年に制度化されました。廃止となるまで実に266年ものあいだ、先島諸島には長く厳しい時代が続くこととなったのでした。

明治26年、明治政府に嘆願書が届けられたことで、過酷な税制度は廃止へと大きく方向を変えました。読売新聞はじめ各社の記事*1によって全国に周知されたことが世論の後押しとなり、第8回帝国議会によって本土と同様の地租に切り替えられることとなります。

この嘆願書が海を越えて内務大臣のもとへ届けられるには、いくつかの人の出会いと、命を懸けた行動が必要でした。

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左)説明をする自治会三役の下地さん。市史編纂に関わっていたので詳しい。 / 右)近くに咲いていた琉球夾竹桃

製糖の技術指導で宮古島を訪れていた城間正安は、現地の農民たちのあまりの状況に、改善に関わっていくこととなります。そんな中での、真珠養殖の事業を起こそうと情熱を秘めて宮古島へ立ち寄った中村十作との出会い。

県令とかけあったものの解決には結びつかず、農民代表と上京して直接請願する計画へと移っていきます。そこで手を挙げたのが、保良村の平良真牛、福間村の西里蒲の二人でした。

人頭税によって既得権益を得ていた現地支配層や士族もいましたから、この計画が明らかになることは危険でした。闇夜の晩に離れ小島に集まって計画を練った逸話、いざ出航となるとき、漲水港で士族らが彼らを行かすまいと取り囲んだ話……。

しかし農民たちが間に割って入って、小舟へ向かう彼らを守ったといいます。城間正安が二人の農民の通訳を受け持ち、中村十作と本土で落ち合って、ついに請願へとたどり着く――集落の片隅にひっそりとあるこの碑石は、百年もの時の向こうにある島のうねりを伝えてくれるようです。

保良元島跡:初期宮古島の成り立ち

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御嶽のあるゴルフ場を県道から臨む

宮古島が記録に初めて現れるのは、14世紀中国明代の歴史書です。ここに記述される「婆羅公管下密牙古人」にある「婆羅」が「保良」のことではないかと言われています。

保良地域はとくに湧き水の豊富なところで、初期に人が住みついたのも自然なこと。東平安名岬の南側の小さな湾、マイバー海岸はその昔、交易船が着く港だったのではないかと考えられています。

東平安名の根本から北側に「保良元島」と呼ばれ、人が住んでいた場所があります。このあたりは今はゴルフ場になっており、御嶽だけが残されているそうです。そのゴルフ場をのぞむ県道から解説を聞く。

近くの湾ではサンゴ礁が取り囲んで、岸から遠く停泊して小舟で上陸しなければならないため、大きな荷物の運搬はどうしても不利になってしまいます。時代が進むにつれ、良港のある平良側へと中心が移っていったのだろうというお話でした。

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マムヤの機織り場・平安名村跡:悲恋の物語

お昼休憩のあとは、マムヤの機織り場へ。マムヤというのはこのあたりに住んでいたとされる絶世の美女で、妻子ある人との悲恋で、海へ身を投げたとされる伝説が残っています。

そのマムヤが身を潜めて機を織っていたとされる洞穴へ。むかしは案内板も立っていたようですが、今は人の案内がないと見つけるのは少々難しい場所にあります。市教育委員会文化財係の久貝さんに先導いただきました。

マムヤの悲恋の相手となった野城の按司。野城は今の福北集落*2あたりなのだそう。按司は当時そこを治めた立場の人のことです。美女の悲恋というエピソードだけでは共感しがたいものがありましたが、身分を超えた恋だったとすると、当時の人たちの記憶に強く残ったのかもしれません。

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左)マムヤの機織り場(東平安名崎:保良漁港入り口付近) / 右)平安名村跡(畑の脇にある小さな礼拝所)

帰りの道すがら、ティダガーと呼ばれる石灰華段のある海岸の入り口でお話を聞き、最後に平安名村跡へ立ち寄りしました。

東平安名崎の周辺には「保良元島」「平安名村(百名村)」「崎山村」などの集落があったとされます。豊かな湧水を生活の基盤にして、私たちの祖先は、この場所で500年以上もの歴史を継いできました。

平安名村も今では畑の脇に小さな御嶽が残るだけとなっています。私の祖父の若い時代には、このあたりに来ると畑の向こうに子どものあげる凧の姿が見えたのだそうです。歴史の記憶がまだ古くないのか、今回参加された方々も思い思いに知識を口にする、和気あいあいとした時間になりました。

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道が困難ということで今回は行けなかった石灰華段。過去の写真から。とても神秘的な場所です。

海を渡って、東平安名岬の近辺に移り住んだだろう人々は、昭和の頃には近くの集落に統合されていったものと思われます。私の住む保良という地域は、宮古島の南に位置する友利・砂川集落からの移住なのだそうです。保良の集落には、友利・砂川からの流入と、そしてもちろん、平安名村などからの移住もあったものと思います。

ときどき集落のことを「シマ」と呼ぶお年寄りに会うことがあります。むかしは集落どうしは簡単に行き来することのない、地形に隔たれた「島」だったのかもしれません。

城辺地域が、名の通り「城の辺り」であったように、宮古島の東側は群雄割拠の時代に栄えた土地でした。しかしこれを統一した豪族が中山王国琉球王国)に朝貢し、豊見親として島主に任じられる頃には、島の中心地は西側へと移っていました。

この群雄割拠の時代もまた興味深いのですが、マムヤのいた時代について按司の存在を考えるに、この豊見親時代の以前、14世紀ごろではないかという話などもありました。島のあちこちにある物語の断片を拾って、歴史を体系づけていくのも大変楽しいことですね。

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県指定天然記念物の天の梅。東平安名崎。

いつもは集落の皆それぞれの日常をおくっていますが、きっかけがあってともにルーツをたどるということ、とても貴重な体験でした。一人ひとりの地の記憶、そして血の記憶を辿って、保良の歴史に思いをはせる一日でした。

配布チラシ
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参考

そこに沖縄県からさとうきびの指導員として城間正安という方がいらっしゃるんですけれども、余り農民の肩を持つものですから、約8年間勤めた職をやめざるを得なくなった。この役人とのぎくしゃくでやめて、彼は那覇の出身だから帰ろうとするけれども農民がとめるんです。とめて、ここで結婚してここに住んで、農民と一緒に行動をするんです。
これでもだめ。そして、新潟出身の中村十作さんという方が八重山に真珠を養殖したいというふうなことで来るんですが、宮古に寄って、この話を聞いてこれに参加するんです。真珠を養殖したいというふうなことで資金も準備したけれども、この廃止運動に全部つぎ込むんです。全部つぎ込んで、農民代表2人、彼らは共通語を使えない、そして聞けないわけですから、帝国議会に訴えようと思ってもできないんです。先ほど言った城間正安さんは宮古に8年も住んでいますから通訳ができるんです。宮古の言葉を日本語で通訳できる。国会に行って、この要請を強く訴えられるのがこの中村十作さん。これはもう島を挙げて、これまで260年間もできなかったことをこの4名でもって帝国議会に訴えて、これを決議させるんです。そして確実にかち取ったんです。

平成23年(2011年) 第 8回 沖縄県議会(定例会)

*1:公開後いただいた補足情報によると、記事になるように各新聞社を訪ね歩いたようです。また、国会議員にも事情を訴えて会いにいったそう。今現在の行政の動かし方にも参考になるような綿密さです...。中村十作の聡明さが今に伝わるようです。

*2:野城ガ―(泉)の隣の高台